株式会社八田銘木店は、現、株式会社丸昇八田の前身です。初代昇治から父禮次に引き継がれ、私は三代目となります。先人の苦労を思うとき、身の引き締まる思いがいたします。器用な祖父であったと聞いております。朝早く三時頃から起きて、木のことや機械について研究していたといいます。また、日高山脈の山々を歩いて勉強し、原木の買い付けも見事であったと聞きました。厳しい祖父で、私がわんぱく盛りのときは怒られた記憶が数知れずあります。祖父が他界して三十数年になりますが、当時のこと、合板のことをもっと詳しく聞いておきたかったという思いが残ります。以下は、私の祖父、八田昇治について書かれている当時の新聞掲載記事です。当時の業界事情を垣間見る上で、何らかの参考になれば幸いです。
                                   (株)丸昇八田 代表取締役 八田 尚久

〈林経新聞 昭和43年10月30日記事より〉


ツキ板ハーフ単板 北海道が発祥


 優良木材の高度利用にともないツキ板産業の発展は著しいものがあり、全国でも百五十数社といわれている。
 ツキ板の製造方法は二種類ありスライサー単板とロータリー単板であるが、そのロータリー単板の発祥が北海道であることはあまり知られていない。

 

柾も剥ぐ高度技
八田昇治氏(札幌)がハーフ考案


 このロータリー単板は合板用ロータリーと異なり剥ぎづらい材質の原料を薄く剥ぐ高度な技術を必要とするもので、今日では長尺ハーフロータリーまで使用されるに至っている。このハーフロータリーの最初は札幌の八田銘木・八田昇治氏が昭和7年静内から札幌に出て伊藤雄太郎氏の工場を引き受けてはじめたもので、タモの玉杢丸太を二ツ割りにして特殊チャックを考案し剥いだものである。杢材は堅いし剥ぎづらいもので(現在と同じく当時からバッグに入れてその中に醋酸を混入することによって木を柔らかくする)当時の機械は現在のハーフロータリーのような精巧なものと異なり技術で剥いだものであった。ロータリーで杢板を剥ぐのは普通であったがこの時すでに柾目の板を剥いだ。当時ロータリーで柾目のツキ板をとったのは驚異的なことである。

 

株近藤清太郎氏 北海杢板を創業


 その後近藤清太郎氏が北海杢板製造所を創業、昭和31年頃から本州方面より注文が増加し本州送りが盛んとなり北三、賤機、田村などに出荷した。日支事変がはじまり静岡の広瀬氏に誘われて福島県田島で航空機用落下タンクの単板製作をし、日本木化を通じ積層強化木の単板を立川航空に納入。現在のツキ板業界の名門といわれる北三、賤機と広瀬、八田、田村氏らがおこなってきたといわれている。当時、名古屋の柴田機械にロータリーを二台注文し、一台は札幌、一台は田島に導入。戦後21年に田村氏は弟子屈にロータリーを入れツキ板生産を開始。札幌では北海銘木の近藤実氏、つづいて北海道特殊合板もはじまった。
 新井木材工業は先代の新井儀作氏が木材業を営んでいたが18〜19年頃まで広瀬氏が在社しており22年スライサーを入れ道内でスライサー単板を最初に生産出荷した。一岡ベニヤも創業、現在ではスライサー三台でアサダ、ナラ、タモの単板を大量に出荷している。28年頃には道産広葉樹の化粧合板用タモ柾、ニレの斑出しの薄突き単板、ナラのミシンテーブル用厚単板、カバのキャビネット単板など、多種のツキ板を移出。25年頃に渡会機械が現在のハーフロータリーの特殊(タコイボ式)チャックアタッチメントを発明した。

 

現在は厚突きが主体


 現在の道内ツキ板業界はホクサン、新井木材、田村商会、札幌ツキ板で各社とも厚突き単板の建築内装用注文生産が主体である。官庁内装にはレオ、マコーレが多く、民間建築はチーク、ユーラシアン、ローズがよく出ている。家具向けにはローズ、ユーラシアンが人気を呼んでおり、道内での建築内装の需要は益々伸びている。道産材のツキ板移出ではフロアーの表単板がここ1〜2年でぐんぐん伸び小樽の宮田産業を筆頭に新井木材工業と旭川の近藤木材とも、その製品が好評を博している。